今日も地球の名物、酸素がおいしいです

プップクプーのプーです 地球には何十年か前に来ました

ただそれだけのこと

お腹が痛い。右の下っ腹が痛い。でも、痛みの位置が微妙で、この痛みが果たして右の下っ腹の中にある内臓の痛みなのか、それとも腰の器質的な痛みなのか全然わからない。

私はいろんなことの原因がわからないということにひどく動揺する。原因がわからないということは、それが永遠に続く可能性を示唆している気がする。しかしそれは今回の右下腹部の痛みには当てはまらない。なぜならばちょっとしか痛くないから。

 

目覚めて、息をして、生きている。時にはインターネットを見たり、大体は本を読んでいることが多いけど、こうやってパソコンを開いたり緑茶を飲んだりして暇と穀をブチブチ潰している。

 

食事を取らないことで自分に罰を与え、体重を偽って献血に行って、フラフラで帰ってきて、右の下腹部がイテテ。なのに痩せていない。生まれつきの筋肉量の多さ。骨格の立派さ。筋肉量が多く骨格が立派であることは、一定の人類にとって素晴らしく幸運なことで、私にとっては素晴らしく不運なことだ。

 

今日起き上がるまでにかかった時間は、5時間。一刻一刻が辛い。数ヶ月引きこもってニートをしています、言葉にすれば簡単で、芸能人や有名人がインタビューで言ってそう。今時珍しくもなんともないニートニート歴数ヶ月、それは一刻一刻の重なり合いで、1秒1秒が辛くのしかかって、私は右も左もわからなくなる。混乱している。

 

 

 

血を抜かれて、もしかしたらその血は誰かの体の中に入るのかもしれない。「血液型はなんですか」たぶん、O型です。「血液凝固はありません、O型ですね」看護師さんに検査されて、私は限りなく間違いなくO型のニートだ。

 

私の血が誰かの体に入って、その誰かが死んでも、私は生きている。逆も然り。誰かの中に入った私の血は固まって、燃えて消える。私の血はどこへ行く。輸血されるか、病気が見つかって捨てられるか、検査目的に使用されるか(その可能性もあると説明された)。でもやっぱり、せっかく抜いたことだし、誰かの体に入ってほしい、というわがままのぼろ切れみたいな気持ちが、自分の中にあると知って、ちょっとニヤリ。

 

輸血されるのは、圧倒的に高齢者が多いという。O型のニートから、O型の高齢者へ。これが、私の予想しうる限り一番ありそうな私の血の行方で、それで私の血は今どこに。北へ南へ東西南北、車で、しっかり封を閉じて、愛する日本に。

 

どこかの病院で誰かの体に入るために真空パックから管を下り、それを見た患者の孫が、「O型のどこかの誰かさん、うちのO型のじいちゃんに血をありがとう。僕もこれからはなるべく献血することにするよ」とかいって献血するようになるだろうか。

 

 

献血問診票に書かれた、職業の欄。会社員と書かれた項目にマルを付ける。嘘ばっかりの私の人生で、名前と生年月日とO型であることは嘘をついたことがない。幼いころ、◯ちゃんはO型でしょ。大雑把だから。と、よく当てられたこの血液型。私はO型のステレオタイプのような大雑把な性格で、AB型の人をなんだか羨ましく思っている。なんだか天才肌な感じがする。左利きの人にも同じように思う。

 

 

だけど私は、右利きで、400ml献血しただけで、恩着せがましく、ブログにぽちぽち書く、ひねくれたO型。筋肉質。