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プップクプーのプーです 地球には何十年か前に来ました

自分の精神状態に気づいたきっかけ その⑵同級生のふとした言葉で気づく

ざっくり言うと、私は機能不全家庭で育ち、無事に大人になった。

色々無事じゃない部分はあるけど、いま生きていて、私はパソコンを打てている。ただ、どのような機能の不全具合だったかどうかに関しては、私の傷がまだ癒えていなくて無事じゃないので、今回の記事では割愛する。

 

中学生の頃くらいから、私は言葉にできない心の痛みに苦しむ日々を送るようになった。何が痛いかわからない。ただ苦しい。でも、その苦しみをなんといえばよいのかわからない。当時の私は、様々な人に、「心が痛い」「苦しい」という趣旨のことを伝えた。様々な人とは、両親、友達、保健室の先生、などだ。なんだかわからないが、とにかく生きづらく、動くのが苦痛。誰かに助けてほしかった。

しかし、そんな私に浴びせられた言葉は、「甘えるんじゃない」「学校に行きなさい」といったものがほとんどで、心についた傷は深くなり、家で起きている虐待に、周囲の友人たち、大人たちはまだしも、当事者である私自身も、そう、誰も気づかなかった。

 

幼い私は、心の痛みをはっきりと自覚しながらも、自分が病気であるとは本気で思っていなかったと思う。「精神的な病気だと思うんです。辛いです」と口に出していたが、半分、構って欲しいという願望の元に口に出していた。

 

大人たちも、この子は構ってほしくてそう言ってるんだ、と恐らく感づいていた。私は、そのことに気づき、より「助けてくれ」と声にした。いま考えると、構ってほしくて病気だと言う中学生なんて、それこそ病気だと思うのだが、当時私が通っていた中学では、生徒の心への関心は薄かった。学校の先生たちの中での私の立ち位置は、「問題児」「困ったちゃん」といったものだったように思う。私は生徒たちの間でも悪目立ちし、生徒の親たちは、あの子と仲良くしてはいけない、と自身の子供たちに言い聞かせていたようで、そんなこんなで居場所を完全に失っていた。

 

私は中学生で、免許もない、お金もない、知識もない、人望もない、行く当てもない、のないないづくしで、家から逃げることがどうしてもできなかった。家で起こる苦しい様々な出来事のあまりの辛さに、深夜0時に家から飛び出して、70キロ離れた祖母の家まで自転車で逃げたが、真夜中の真っ暗な田舎道にパニックになり、40キロを超えたあたりで、諦めてしまい結局迎えに来てもらうことになった。今でも親族はこのことを笑い話として話すが、私にはその姿は狂っているように見える。私は、この出来事を笑い話にできる日は一生来ないだろう。中学生の、部活もまともにやったことがないような喘息持ちの運動オンチの子が、果てしなく感じられる距離を自転車に乗って走ると決意するほどの辛い日々だったのだ。そして、夜の深淵に震え、見渡す限り真っ暗な闇に怯えた。悔しい悔しいと思いながら迎えを呼んだ。苦しかった。私は、笑われようと馬鹿にされようと、絶対にこの日の幼い自分のことを恥じることはない。

 

私は甘えている。でも、苦しくて動けない。逃げたいのに逃げることができない。警察を呼びたいけど、呼んだらみんなに家の中で何が起こっているのかばれてしまう、恥ずかしい。このくらいのことで呼ばないでくれって警察にも言われてしまうかも。もうこれ以上友達に変人だと思われたくない。みんなの白い目が辛い。私のせいで、私のせいで、私が、私が、、、、。

 

追い詰められた。私は本気で、この痛みは自分の甘えによるものだと確信していた。思春期の強烈な自意識が、私を闇の世界に連れ去った。同時に、私は人よりも思春期の感情の揺れが大きいだけで、思春期さえ過ぎれば、普通の大人になれるかもしれないと、最後の希望を持った。

 

学校にもまともに行けていない私の未来は真っ暗に思えた。子供たちにとって、世界の全ては学校と家庭だ。どちらも、崩壊していた。子供たちにも大人たちにもさじを投げられた私がたどり着いたのは、自分の苦しみを自分のせいにして痛めつけることだった。私は、過量服薬することで自身を保つようになった。

 

今でも、初めて過量服薬するための痛み止め薬を買った時の、震える自分の手のことを思い出す。薬局で薬を選んでいるとき、私は薬剤師さんに、「どこか痛いの?」と聞かれた。頭が痛いと答えると(嘘だが)、「この薬は頭痛に効くよ」と笑顔で声をかけられた。なんのことはない言葉だが、疎まれ尽くしていた当時の私には、そんなふとした言葉でさえ、私のことを考えてくれる人はまだいるんだ、という気付きの希望の光だった。この言葉が後々私の致死量を超える過量服薬を阻止したのかもしれない。

 

 

このように文章にすると、すごく狂った中学生に見えるかもしれない。でも、私は疎まれながらも、健全に見えるよう、少しでもこれ以上嫌われないように必死だった。学校に行き、一生懸命自分を嫌っているとわかっている同級生に声をかけ続けた。

 

ある日、四限目の授業が終わり、お弁当の時間が来るまで、少し時間があったので、隣の席の男の子と話していた。綺麗な顔をした子で、優しい子でもあったのだが、時折本人の悪気なく尖ったことを言う子だったので、少し身構えて話していた。どういう話の流れでそうなったか覚えていないのだが、その子は突然、笑顔のまま、うつ病について話し始めた。

 

「ねえ、うつ病の人ってさ、本当に死にたくなるらしいよ。すごいよね」

私は、「そうなんだあ、、」と頷きながら雷に打たれたような衝撃で動けなくなった。

 

私、毎日毎日死にたい死にたいと思って必死で生きてるのに、もしかして普通の人はそうじゃないんじゃないか、もしかして私は本当の本当に病気なんじゃないのか。最近、リストカットする若者が多いってテレビでやってたから、そんなことするなんて痛そうで怖いなあと思っていたけど、私が薬飲んでしまうのも、他から見たらとんでもなく異常なんじゃないか。これって思春期だからとかじゃないんじゃないか。ああ、死にたい!!!と思った。

 

うまく生きれない立ち回れない自分を責めて責めて責めて、薬を飲んで胃の痛みに悶絶する日々を送っていた私が、自分の本当の意味での異常性に初めて気づいたのは、あの男の子が発した言葉を聞いた時だった。私は、過量服薬を繰り返しながらも、思春期で心が揺れがちな、でも健康な中学生だと本気で思っていた。つまり、他の子供達も、ある程度心の中に死を飼っていると思っていた。顔に出さないだけで、声に出さないだけで、苦しみと死の狭間で、誰しも大小の違いはあれど、戦っていると本気で信じていた。

 

だって、先生達に言われるんだもん、どこの家にも問題はある、とか、みんな見えないところで辛い思いをしている、とか。だから、みんな何かしら苦しくて死にたいのに、私は甘えているのだとずっと自分を責めて、泣きながら一人で薬を流し込んでいた。悲しい時間だった。でも、それはみんなだってそうなんじゃないの?そういう時間を超えて、笑っているんじゃないの?違うの?

私は混乱した。一人の男の子がふと発した言葉を受けて、私は日本中の中学生達のことがよくわからなくなった。