今日も地球の名物、酸素がおいしいです

プップクプーのプーです 地球には何十年か前に来ました

どこの職場(家庭)にも問題はあるって言わないであげて

昨日のブログにも書いたけど、私はこの言葉に振り回されたところがあります。確かに、そうかもしれないです。家庭は、幾人かの人間と、その人間の持つ様々な要素で構成されていて、複雑です。私は完璧な人間など、存在しないと気付き始めているので、きっとどこの家庭にも、悩み、苦労、様々あるのだろうと思います。この文章を書いているだけで、現在就労できていない自分のことが、申し訳なくて恥ずかしくてたまりません、、、今なら、これを乗り越えて生きるんだ、回復することこそが、必要なのだと思い直すことができます。

 

しかし、幼かった私は、その言葉を言われてしまったがために、SOSを発することができなくなりました。この言葉は、励ましているような響きを含んでいるけど、追い詰められた人間には、「あなたは甘えている」と聞こえることがあります。

 

私の育った家には、ある一面で大きな問題がありましたが、別の方面から見た場合に、全く問題がない部分もありました。外から見た時に、見えるのは見えやすい部分です。その見えやすくわかりやすい部分がボロボロなとき、人は、気付き、救いの手を差し伸べてくれるかもしれません。

ですが、問題は水面下にある場合の方が多いのではないか、と思います。幼い私は、この言葉を真に受けて、どこの誰にも悩みはある、どこの家にも問題はある、みんな隠して生きているのにどうして私だけできないのか、と自責の念に駆られ、自傷行為から逃れられずにいました。

 

どこにだって問題はあると言われたら、もう何も言えません。だって、それは本当だからです。耐えられる人には耐えられるのかもしれません。私が特別弱いのかもしれません。

 

大人になった私が気づいたのは、言葉にはなんの責任もないということです。苦しむ私が、あのとき、あなたが、ああやって言ったから必死で耐えたのに、鬱になってしまった、といくら思っても、言った人にはなにも頼ることはできません。その言葉は、発されたその時に、空中で消えています。私の記憶だけが生きていて、心臓のなかで、切れない糸に言葉がぶら下がり、プラプラと気分屋に内側から攻撃してくるだけです。

 

 

栄光の架け橋、という歌があります。

私はこの歌が好きでした。元気をもらえると思っていました。

ゆずが好きな方、栄光の架け橋が好きな方は、もうここから読まないでいただきたいです。私は彼らやこの歌を批判したいのではなく、ただ過去の自分に寄り添いたいという思いで、この先文章を書きますが、きっと、不快な思いをされる方もいると思います。

ゆずのお二人が、そのような考えを持ってこの曲を歌っているというわけではないことは重々承知です。愚かな私が勝手にそう受け取った、残念な事例というだけです。

 

 

栄光の架け橋の二番に、こういう歌詞があります。私はこの歌詞に共感し、家庭内で起こる、問題に耐えて耐えてきました。

ある年頃から、私は自分の心の苦しみを、誰かに言うことをやめました。それは恥ずべきことだと感じていました。そのように口に出さない自分はクレバーだと、本気で思っていました。

 

 

悔しくて眠れなかった夜があった

恐くて震えていた夜があった

もう駄目だとすべてが嫌になって逃げ出そうとした時も

想い出せばこうしてたくさんの支えの中で歩いてきた

 

悲しみや苦しみの先にそれぞれの光がある

さあ行こう 振り返らず走り出せばいい

希望に満ちた空へ

 

 

聞きながらよく泣きました。布団のなかで、自分が受けた苦しみや悔しさを必死で我慢しました。甘えている自分を叩きなおさねばならないと決意しました。高校生になった頃、私は見かけだけ強く装うことができるようになりました。

でもそれは見かけだけでした。私のその後の人生は、この歌詞のように進んでいません。悲しみや苦しみの先にあったのは、無力感と絶望でした。振替らず走り出したけど、私の頭上には、暗くて黒い雲がいつもあり、視界には、もやがかかったままです。

 

この歌が、スポーツを頑張るオリンピック選手に向けて作られたことを知ったのは、私が高校を卒業してからずいぶん経ってからでした。私は、テレビを楽しく観る環境のなかで生きていなかったので、知らなかったままでした。

 

 

恐くて震えた心は、今も震えています。世界中の人々が私の敵に見えます。人とすれ違う度、スーパーでレジに並ぶ度、知らない誰かが近づいてくる度、どっと疲れます。したいことはありません。何をしても楽しくないのです。途方に暮れています。

 

高校を卒業し、大学を卒業しました。私は、目標を見失っています。ただただ長い、長すぎるこの人生を冷めた目で見つめています。日本中に転がる格言の何をもってしても、私を生に向かって突き進めることは難しいと思います。世界中でたったひとりと感じています。身体中にバリアを張って、人を寄せ付けないようにしています。なぜなら、私は同じ地球で生きていますが、私側から見ると、同じ世界で生きてきたと感じることができず、信用ならないからです。ごめんなさい。

 

いまも、飼い犬だけが、こっそりバリアの中に入り、そんな私を心配そうな目で見つめています。