今日も地球の名物、酸素がおいしいです

プップクプーのプーです 地球には何十年か前に来ました

自分の精神状態に気づいたきっかけ その⑴メンヘラの意味づけ

最近、メンヘラたちのことをよく考えます。

 

インターネットでメンヘラのことをいろいろ見てみたのですが、インターネットが普及し始めた頃から、メンヘラはある種のコンテンツとして消費されてきたとの意見を目にしました。時には、メンヘラをコンテンツとして扱われてしまったことが最終的にその方を追い詰めたのではないか、との見方もある、悲しい若者の死もありました。

 

私は、メンヘラコンテンツに自ら入ることを拒んでいました。自分を、そして他人も、メンヘラとしてひとくくりに扱うことを、せずにいました。理由は、メンヘラという呼び方に、精神的に不安定な人々を嘲っているような響きを感じたからです。そして、現代という時代、今日を生きているという感覚に置いていかれがちな私には、メンヘラという言葉が現代的に感じられ、遠い存在に見えていました。

 

そんな私ですが、いま、このアクセス数の少ないブログを、もしよかったらメンヘラの方に読んで欲しいと、私は傲慢ですが思っています。これから、このブログ上に私の精神状態への懐古というか、なんというか、過去といまの自分の心の中をいくつか記事にします。その一つ目の意味づけとして、この記事を書いています。

 

 

 

パソコンが普及し、スマートホンが普及し、より一層インターネットが普及しました。真偽や善悪ははともあれ、インターネット上にはたくさんの情報があります。若い方も、簡単にインターネットを通じて情報を得ることができます。文章を読むことができます。その中のたくさんの情報の一つとして、私は言葉を発信したいと思います。

 

特に、メンヘラに対して、発信したいです。私が自分自身をメンヘラとして扱うのは、自身のことをメンヘラだと思っている人に読んでもらいたいという考えから使っているだけです。

 

これは、あくまでも私のひとりよがりな感情なのですが、私は、この同じ星で生きる誰かに、その誰か自身がメンヘラであることに価値や需要があるとは思ってほしくありません。自分の中で、自分がメンヘラだってことを膨らませてほしくありません。同じ病気だろうが、同じ境遇だろうが、共感を覚えたとしても、それは共感という言葉に収まる程度の感情にしてほしいです。

 

私たちの人生は、メンヘラの一生ではありません。歩みたくて歩んでいるわけではないと思ってしまってう方もいるかもしれませんが、私たちはこの人生の中で、主人公として生きる使命を負っています。その重みに押しつぶされそうな毎日だけど、私たちは生きねばなりません。生きていることが美徳です。こんな言い方、自ら死を選んだ方を冒涜していると感じられる方がいらっしゃったら、ごめんなさい。でも、私はそう思い続けています。そう思わないと生きていけない弱さを持っているからかもしれないけど、私は今を生きる生存者に、生きていることが最高にかっこよくて最高に輝いているということを、なんとか伝えたいと思っています。

 

 

武士道だとかが歴史の中で存在し、自己犠牲の精神が美しく気高いとされる考え方がなんだか抜けないような気がするのは、私が日本に住んでいるからなのでしょうか。武士のことは全く詳しくないのですが、例えば、メンヘラが亡くなった時、なんだかその方が「本当に死んだ」ということが妙に後味悪く心に残ります。なぜ後味が悪いのか、それはおそらく、私がそのメンヘラが「本当に死んだ」ことに強い意識を持ってしまうからです。いま、私は自分の言っていることが矛盾していると気づいています。そのことが辛いです。この気持ちを消し去りたいです。消し去りたいけど消えない。

 

いまの私たちメンヘラを取り巻く空気の中で、若い人が心を病み、そのまま生き延びて年を重ねることは美しくないのではないか、という雰囲気を肌に感じています。若いままこの世を去ることで、みんなが私のことを考えて辛さを理解してくれる、知名度によっては、カリスマになれる、記憶に残れる、美しい。永遠に十代のまま。いわゆる、死ぬ死ぬ詐欺だと思われたくない。かっこわるい。

 

 

死ぬことで、自らを理解してもらえるのではないかと思ったことがあります。それは、私が「本当に死んだ」方々に強い意識を持ったからです。反省しなければならないと痛感しています。

自死した年齢が若ければ若いほど、同情される現実を知っています。

インターネットが普及したいま、インターネットで知り合ったと思われる人々の悲しいニュースが目に入ります。

 

私は、きっと死んで美しいとされるであろう年齢は超えています。超えることができてよかった。私はこの年齢の私に会えてよかったです。そう思うのが、世界でたったひとり私だけだとしても。私は死ぬことでこの世から逃げたり、理解されようとしたり、といったことはできなかったし、したかったし、できませんでした。怖かった。死にたかった。理解されたかった。怖かった。私なりに、苦しみ抜いた。でもまだ苦しみます。私は、大好きなこの星に生きる人間たちが抱える苦痛や欲望にバーンとぶち当たりながら、苦しみ生きます。理由はありません。生きるのです。人生の意味はわかりません。生きます。私と同じこの時間を、同じ大地の上で、悠久のように長く鬱屈と感じる人生を、生きてください。生きてくれませんか。私は、苦しむ方々を救うことはできません。偽善的で、無責任な文章です。生きて欲しい。独善的でもあります。

 

 

私を構成する、美しくないすべての数字や物体をもってして、理解される手段として、自分から出てくる陳腐な言葉や、太い指でポチポチ打ったこの読みづらい文章を使います。

 

 思いつくままに書くことしかできない、ただ誰の心もできるだけ傷つけたくありません。私はメンヘラであることを認めますが、メンヘラとして消費されることを望みません。インターネットが身近になったからこそ、生を叫びたい。私、あんなに苦しみを人に言えず、飼っていたのに、いま、文章の中で、大きく叫びながら動けます。

 

思春期の私の眼前には確かにインターネットは存在していましたが、(あくまでも私の眼に映る部分の中で、ですが)それは、アンダーグラウンドな世界でした。インターネットに傾倒する思春期の知り合いなんてほとんどいなかった。いても、それはゲームにはまっているとか、携帯小説読んでるとか、そういう感じでした。深く踏み込むと戻ってこれないような、怖いような、あまり見すぎてはいけない世界だと感じていた。

 

実際、そういう世界もあるのかもしれないけれど、、、そうでない何かもあって、影響を受けるときに、そうでない何かから受けて欲しい。死んでしまって、消えてしまった誰かはもういません。生きている苦しみに眼を向けて、生きて戦って。行列に並んでパンケーキを食べて、太るとか言って悩んで、テストに落ちて、振られて未練タラタラで、許せないことがあって、許せていない自分を嫌って、みんなの心をガブリガブリ噛んで食べて、いまから寝て朝起きて絶望します。そんな毎日。罪悪感と焦燥感と果てしない諦めと青臭い期待を抱いて、這いつくばって進んでいます。周りから白い目で見られ、時には心配してくれる優しい人もいて、経済面で周囲や国民の皆様に迷惑をかけまくり、ごめんなさいごめんなさいしながら、申し訳ないけれど、生きます。生きます。生きてくれませんか。無責任で独善的にこっそり生きる私から、メンヘラの誰かへ、厳しく悲しく辛いお願いです。