今日も地球の名物、酸素がおいしいです

プップクプーのプーです 地球には何十年か前に来ました

はじめまして、プー太郎です。苦しみについて

苦しみについて

 

今日から地味に孤独な戦いをはじめます。そう決めたらなんだか辛くなって、パソコンのワードにぱーーっと文章を打ったんだけど、この文章がずっとこのままなのもかわいそうだ、と思ったので、その文章をコピペして、続きを書いて、ブログを始めました。

 

 

その文章はこちらです。

 

 

自分の内面に打ち勝つためには犠牲が必要だと思ってしまう。生きて、より長い明日に向かうために、自分の体を傷つけないでいたい、でも、自分を少しは傷つけないともっと大変になってしまいそうだから、少なくとも、一人でいるときには食事を摂らないでおきたいと思った。自分に与える罰を選択するときに、どうしてもまだ私は正常で、血を見たり吐いたりできない。

 

 

それにそんなことしたら周りから評価が下がるから、それだけは今避けて、苦しい気持ちをなんなくやり過ごすために、空腹で私は私に罰を与えてる。

 

 

世界にはびこる苦しみや理不尽の上澄みが、体の周りにふんわりまとわりつく今日みたいな日は、私がその一億分の1とか、一兆分の1とか、もっと天文学的な数字分の1だけでも引き受けて、地球の人間がここで一人、罰を受けましたよって言って、ごめんなさいって、小さな責任をどこか雲の上の方に返してるようなそんな気持ち。

 

 

部屋のスピーカーで曲聞いてるし、電気を使ってブログを書いているし、地球の限りある資源を消費している。ばくばくよくそんなに食べれるねってくらい食べて生きてきて、今更だし、私が苦しんだって何も世界にメリットないかもしれないけど、いますぐ消えるのはどの方法を頭にめぐらせても痛そうで、まだしたくないので、こっそり一人で修行僧気分です。

 

 

 

 

 

私が最近一人で飲み込んだ自分の中での一つの答えとして、

苦しんでない人に苦しみを思いっきり投げちゃうと、話が全く理解できないみたいで、あなたがとても苦しんでいたことはわかるけれど、もうこちらが苦しいからやめてくださいというような、二次被害になるかもと思った。

 

 

それは小さい頃の私が、電車の中で知らないおばあさんに戦争で亡くなった家族の話をされたとき、しかも会うたび毎回されたときのような気持ちなのかもしれない、それはよくない、と自分を律している。

 

 

けど、そこで自分を完全にコントロールできるなら、今頃私は働いたり、少なくとも外に出たりはしている。それができないので、話は最初に戻り、私は罰として食事を抜いている。

 

食事を抜くと、罰を与えられている気分にもなるし、逆側の気持ちも持ち合わせることができる。私が無力であり、さらに愚かでもあるために背負った、生きるという罪の重さにぐったりするけど、罰を与えることで、私がいろんな立場になって、自分をコントロールできる、、、というふりならできるようになると期待を込めている。

 

 

こうやって心にこっそり重しをかけているけど、そしてこの重しが意外に重くて、まだ全然痩せていない体にも、ずっしりくる。

 

 

このインターネットの世界には色んな人達がいて、もちろん私にはとても近づけない明るいつながりのものもある。でも、苦しみや痛みや、心にしまっておいた何かを分け合ったり、励ましあったりするようなところもあるようです。

 

 

しかも、情報も自分である程度は取捨選択できるから、私が誰かを傷つけることも、自分が傷つくことも薄いと見込んでいる。そんな世界に期待を込めて、ブログを始めます。よろしくお願いします。